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「弘知法印御伝記」の企画や作品について ブログトップ

「弘知法印御伝記」のあらすじ(ストーリー) [「弘知法印御伝記」の企画や作品について]

「弘知法印御伝記」のあらすじ(ストーリー)

 順番としてちょっと遅くなりましたが、あらすじを紹介させて頂きます。
 ストーリー この物語は寺泊の西生寺(さいしょうじ)《注1》に、日本最古の即身仏として安置されている弘智法印にまつわる伝説をもとに、虚構を加えた高僧の一代記として、6段から成る浄瑠璃に仕立てられている。実際の弘智法印は下総国香取郡正木郷の生まれ。奥州・出羽を巡り、高野山での修行の後、弥彦神社を拝して、猿ヶ馬場の岩坂に深入禅定の座を占め、貞治2年(1363)に入滅した。
  •  初 段  越後国、弥彦山麓に裕福な長者が暮らしていた。妻には先立たれたが、息子夫婦には三歳の男子の孫がいて、嫁は二人目の子を身ごもっている。何不自由無い暮らしではあったが、息子の遊興好きが父、秋弘の悩みの種であった。今日も柏崎の遊郭に出かけた息子を諌める為、父も遊郭に向かう。
  • 二 段  父が諌めに来ることを知った弘友は馬子と衣裳を取替えるが、父に見破られて勘当される。成り行きを案じて表に出た嫁、柳の前は弘友の衣裳を着た馬上の馬子を夫と見て、すがり寄る。驚いた馬子は柳の前を切り払って逃げ去り、柳の前は夫を恨みながら落命するが、身ごもっていた子は生まれ出る。その場に行き当たった弘友は己の愚行を悔やみ、妻を埋葬し長男の千代若を実家の門前に届けるが、置き去りにした嬰児は狼が咥えて行く。
  • 三 段  弘友は出家しようと高野山を目指す。五智国分寺に籠った夜、幽霊となった柳の前に再会する。また、居合わせた弘法大師の弟子となり、弘知の名を授かる。高野山への道中、美しい娘に化けた魔王が修行を邪魔しようとするが、振り切って高野山に閉じこもる。
  • 四 段  家が傾き耕作をして千代若と暮らす秋弘は孫を驚かせた蛇を殺そうとしたはずみで落命する。高野山での七年を経て、弘知法印は修行がてら故郷の越後を訪れるが、この場に行き会い、父子の名乗りはせぬまま、孤児となった千代若に弘嗣の名を授けて弟子にする。
  • 五 段  弘知法印は高野山への道中で足を痛めた弘嗣を馬に乗せるが、仔馬に乳を飲ませるために休ませた馬の親子が突然死ぬ。法印が経を唱えると馬の死骸が割れて、法印の両親が現れ、法印が観音大師の生まれ変わりで、やがて即身仏となることを告げ、天に昇って行く。
  • 六 段  生まれたばかりの次男を咥えて行った狼は弥彦権現の化身であった。今度は女性の姿となり、七歳になった次男を連れて現れる。柳の前の七年忌の命日に、法印と二人の息子は再会を果たし、揃って墓参すると二十五菩薩が来迎し、墓から現れた柳の前は紫雲に乗って成仏する。次男、千代松は家督を継いで即身仏を安置する堂を建てること、長男、弘嗣は堂の住持となるよう言い残し、法印は即身仏となって往生する。都から勅使が来て、弘嗣を権大僧都に、千代松を越後国主にする宣旨が下され、遺言通りに即身仏を収める御堂が建つ。
 《1》      http://www.saisyouji.jp/saisyo-ji/contents-koutuu-navi.html西生寺のことは、「おくの細道」や「曽良旅日記」にも記載がありましたよね。

企画詳細 [「弘知法印御伝記」の企画や作品について]

本来なら5月14日の「企画概要」の直ぐ後に記載すべきことなのですが、遅れてしまいました。ごめんなさい。

企 画 詳 細 

江戸時代初めに上演、刊行されて以来300年、陽の目を見ずに異国に眠っていた浄瑠璃本がある。「弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」は貞享2年(1685)に出版され、7年後の元禄5(1692)にドイツ人医師ケンペルによって長崎出島から幕府の禁を犯して持ち出された。日本では原本の残存が確認されておらず、昭和38(1963)に当時ケンブリッジ大学で教鞭をとられていた鳥越文藏先生が大英博物館で発見、翻刻(《注1》参照)出版された。外題の角書きに「越後 柏崎」とある通り、越後を舞台に物語が展開する、新潟にとってはご当地物の説経浄瑠璃である。

中世に始まる浄瑠璃は三味線の普及に連れて操り人形を伴う劇場芸能に発展し、17世紀末には「日本のシェークスピア」とも称される劇作家、近松門左衛門と組んだ竹本義太夫がそれまでの古浄瑠璃(《注2》参照)を集大成して義太夫節を創始する。文学的に成熟した大近松の作品に比べ、近松以前の古浄瑠璃は低く評価されがちだが、庶民の心情を素直に表す、素朴で力強い詞章や物語の構成には捨て難い魅力があり、現代の演劇にも様々な影響を与えている。古浄瑠璃や初期の義太夫節は口伝えで継承されたため譜面は無く、復曲して演奏することは極めて難しい。正本その他の文献はほぼ研究し尽くされているが、復曲は未開拓の分野で、学術的研究に加え、経験豊かな実演家が想像力と創作力を働かせて新たに作譜する必要がある。

現在新潟市在住の鶴澤淺造と佐渡市在住の西橋健は、大阪を本拠地とする人形浄瑠璃「文楽」にほぼ同時期に入門した。鶴澤淺造は25年間文楽の三味線奏者を勤めた後、現在は新潟で義太夫節の指導、三味線弾語りの公演を続けている。西橋健は文楽で9年間人形を遣った後、佐渡に移住し、ほぼ30年間地元の文弥人形の一座で人形を遣っている。佐渡の文弥人形は江戸初期の古浄瑠璃系一人遣いを偲ばせる希少な人形芝居として、国の重要無形民俗文化財に指定されているが、語り手の後継者不足により廃絶の危機に瀕している。文弥節を存続させると同時に、人形浄瑠璃の可能性を拡げるために、両人は互いに新潟と佐渡を往復し、文弥節を参考にした古浄瑠璃の復曲と、上演の試みを既に始めている。 

「弘知法印御伝記」との出会いを機に新潟市民から人形の遣い手を募り、市民の手作りによる復活上演が国内外の各地で実現すれば、日本はもとより海外の研究者も注目する古浄瑠璃の復活という未開拓の分野での先駆けとして、世界の演劇創造に資するとともに、文化発信の地として新潟をアピールすることが出来る。すでに上演の可能性を示唆する反応が得られた海外の上演候補地もある。

同時に、この復活上演が沈滞化しつつある佐渡の文弥人形に良い刺激となって存続継承に役立つことと、企画立案後に起きた中越沖地震により多大な被害を受けられた柏崎の皆様を励ます上演となることも願っている。

 《注1》             写本・刊本を底本として、木版または活版で刊行すること。翻印。(広辞苑より)

《注2》        義太夫節成立以前、寛永(1624-1644)~貞享(1684-1688)頃に現れた数十種類の浄瑠璃各派(薩摩節、金平(きんぴら)節、肥前節、近江節、播磨節、嘉太夫節、文弥節など)の総称、多くは一代限りで衰退し、いずれも江戸中期以降は伝承されない。(広辞苑より)

以下は、1月20日の初段の稽古で西橋さんの指導を受ける座員たちの写真です。

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「越後國 柏崎 弘知法印御伝記」の企画概要 [「弘知法印御伝記」の企画や作品について]

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企画概要

 300年もの間、陽の目を見ずに異国に眠っていた浄瑠璃本「弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」。貞享2年(1685)に出版され、7年後の元禄5(1692)にドイツ人医師ケンペル(ドイツ名:エンゲルベルト・ケンプファー、1651-1716。二度、徳川綱吉に謁見、《注1》参照)によって出島から幕府の禁を犯して持ち出された。日本では原本の残存が確認されておらず、昭和38(1963)に鳥越文藏先生により大英博物館(《注2》参照)で発見され、昭和41(1966)に翻刻出版(上の写真を参照)された。外題の角書きに「越後柏崎」とある通り、越後を舞台に物語が展開するご当地物の説経浄瑠璃である。「越後猿八座(えちごさるはちざ)」は、古典芸能・文楽出身の新潟人・鶴澤淺造と西橋健を中心にメンバー全員新潟人で結成され、この浄瑠璃を復曲し人形浄瑠璃として復活します。

 《注1http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB

 《注2http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8B%B1%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8


「越後國 柏崎 弘知法印御伝記」との出会い [「弘知法印御伝記」の企画や作品について]

「越後國 柏崎 弘知法印御伝記」との出会い

平成19年正月に、恩師ドナルド・キーン先生(《注1》を参照)をお訪ねした折「淺造(《注4》を参照)は古浄瑠璃に興味があるようだが、昭和38年に早稲田の鳥越さん(《注2》を参照)が大英博物館で発見したものがあるから調べて、面白そうなら上演してみたらどうか」とお話し下さいました。鳥越文藏先生はドナルド・キーン先生のご紹介により、ケンブリッジ大学で教鞭をとられるようになり、その折に「弘知法印御伝記」を発見されました。
直ぐに『古典文庫』を購入して読んでみると「弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」は、内容も荒唐無稽な面白さと当時の民衆の信仰や宗教性を実感できて、文化史的にも歴史的にも上演する価値は非常に高いと思いました。
 その年の3月に佐渡で鳥越先生にそのことをお話しすると、諸手を挙げて賛成して下さいました。早速佐渡・猿八の西橋健さん(《注3》を参照)と準備にとりかかり、平成20年1月に人形遣いを募集し、越後猿八座(えちごさるはちざ)を立ち上げ、稽古に入りました。

《注1》ドナルド・キーン コロンビア大学名誉教授、日本学の世界的研究者(司馬遼太郎著「街道をゆく ニューヨーク散歩」”ドナルド・キーン教授”の項目より)
《注2》鳥越文藏 早稲田大学名誉教授、元早稲田大学演劇博物館館長
《注3》西橋健 http://www2.ocn.ne.jp/~saru8/kenj.html
《注4》淺造(あさぞう)=鶴澤淺造(五世)=越後角太夫(えちご かくたゆう) このことについては後日の記事で詳細を説明させて頂きます
http://www.hanga-cobo.jp/clip/clip08.html


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